まどろみ(6)手放した言葉は、結局どうなるか

絶望をはらんでいる、それでも私にとって「赦し」に近い気もする
花輪えみ 2025.09.20
誰でも

こんばんは。ニドネの花輪えみです。

映画『ひゃくえむ。』を公開初日に観てきました。すごく、よかった。

『チ。』然りかもしれませんが、それぞれの正義を「正義」足らしめんと努力する人たち、異なる方角を向く人たちの時折交差する構図はきらめいていますよね。

今日のBGMは「らしさ」です。今回は、“書きなおす”という行為について考えてみます。

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何かを書いたあと「ちがうな」と感じることは少なからずあります。

言いたかったことがちゃんと届く未来が見えない。気持ちが追いついていない。

あるいは、書いた途端に自分の中で何かが冷めてしまう。不安、心配。

何度か書きましたが、私はそれを手放すようにしています。パソコンを閉じる、ペンを置く。

消してしまうのではなく、ただそっと寝かせるのです。

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いちど手放した言葉には、不思議と温度が戻ってきます。

時間が経つと、その温度が熱すぎるか冷めすぎているかがわかるようになる気がしています。

「こう書くしかない」と思い詰めていた文章に別の角度があると気づき、着地点が見えなかったのがウソのようにすとんと落ちがつくこともあります。

書きなおすことは、負けじゃない。未熟でもない。むしろ、自分や言葉の熱を受け止めなおすことだと思い、願い、信じています。

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たとえ誰もみていないような日記であっても、見直して、削って、足して、寝かせて、やっと「これなら終止符を打てる」と思えるような形に整えるように努力しています。

その過程は絶望をはらんでいますが、私にとって「赦し」に近い気もするのです。

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書いたものを手放す勇気、そしてもう一度向き合うしんどさ。

そのどちらも、きっと言葉を大切に思っているからこそ持てるものなのだと思います。これからも、大事にしていきたい感情や情熱のひとつです。

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それでは、よい眠りを。おやすみなさい。

花輪えみ(ニドネ編集長)

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